一遍 入寂地を訪ねる (真光寺) 

一遍上人は、多くの宗教人の中でも
興味深い人物である。
権力、妻子を捨て、遊行の末
大輪田の泊の観音堂で往生したといわれる。

今まで近くにいながら、訪れることはなかったが
たまたま、サイクリングの途中
その真光寺にある廟所に参ることが出来た。

折りしも、彼岸で境内は法要が営まれていたのも
これも何かの縁かもしれないと思い廟所へと向かう。


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廟には巨大な五輪塔がある。
おそらく後世の人々が祀ったと思われるが
私の一遍上人のイメージからして
この巨大さは少し違和感を覚えた。


一遍といえば国宝「一遍聖絵」があまりにも有名であるが

一遍が亡くなるシーンは
松林に砂浜が広がり
そこでの荼毘の風景と
一遍を追って、入水往生する弟子と
それを追う人々の姿が印象的だったのを思い出す。

真光寺の北には、「和田の笠松」の標があり
これに、江戸時代の絵図が掲げてあった。

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戦災でこの松もなくなったというから
少なくとも、戦前までは、一遍聖絵にあるような面影があったのだろう。

確かに、現在も地名に
海に近いところから「芦原通」「松原通」「須佐野通(州砂野か?)」「入江通」
などが残っていて、松原砂浜が広がっていたことが偲ばれる。


少し南には、清盛塚なるものもあり
清盛の実際の墓ではないようだが
鎌倉期の十三重の塔で立派なものである。

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大輪田の泊は、平清盛が日宋貿易の拠点としたところであり
当時としては、莫大な物品や金と人がこの地に集まり
かなり賑わったに違いない。
まさしく、中世の魅力的な交易都市だった。

一遍は淡路島から上陸し、
播磨印南野にある教信寺に行くべくして
ここで力尽きている。

一遍が、中世の都市民、工商業者や流浪民に
大いに受け入れられたことを思えば、
もう、大輪田の泊の繁栄は薄れていたにせよ
最期の地にふさわしい場所であったのではないだろうか。


「旅ころも 木の根 かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき」 一遍




かなり前に読んだ本だが
いくつかある一遍の伝記の中でも、
佐江衆一のこの本は、群を抜いている。
一遍がいかにして遊行となったのか。
その謎が明かされる。

おすすめ。文庫本にもなったようだ。
わが屍は野に捨てよ―一遍遊行 (新潮文庫)

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この記事へのコメント

beret-east
2007年09月28日 18:25
一遍上人のお墓が神戸にあるとは知りませんでした!!今から10年以上前になりますが、埼玉県に住んでいたとき、近くに「道場」というバス停がありました。時宗のお寺のことを道場というらしいことを知っていたので、このへんに時宗系のお寺があるとニラんで散歩してると案の定今でも時宗の「道場」がありました。今は時宗の信徒さんはどれぐらいおられるんでしょうかね。神奈川県藤沢には時宗本山の遊行時があり、数年前に立ち寄ったことがありますがとくに見るべきものもなくベレー帽を脱いですごすご帰った覚えがあります。ただ、小栗判官の照手姫のお墓があったように思います。このハナシも時宗系ですね。今年の信州ベレー活動の側というか信州にも一遍上人のたどったあとが多いようです。一遍上人をテーマにベレー帽をかますのも一案でしょうか。オススメの小説にも目を通しておきましょう。
2007年09月29日 07:20
一遍は四国河野一族の出身で、河野といえば海賊の系譜なので、ますますベレー帽の興味深々といったところでしょう。
結構な身分だったのに、出家したというのが関心事です。この辺が明らかでないので、小説にもなっているのだと思います。
一遍遊行の北限は東北北上、南限は九州大隈なのですが当時の交通事情から考えると、その行動範囲は驚くべきものがありますね。鎌倉では時の執権北条氏との対決もあったようでberet-eastの調査対象にどうでしょうか。踊念仏は一種のトランス状態でトラに通ずるものがあるのではないですか?

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  • 熊野本宮大社(大斎原)と一遍上人(beret-expedition2008 §11)

    Excerpt: 熊野本宮大社跡 大斎原を訪ねる。 一遍上人が熊野権現から 「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」 との夢告を受け、教義を固めた場所でもある。(1274年・文永11) Weblog: ベレー帽通信 WEST racked: 2008-11-03 10:38