モヨロ貝塚遺跡(網走市)を訪ねる (2015道東自転車紀行 §1)

モヨロ貝塚は、アイヌ以前のオホーツク沿岸の先住民の遺跡である。
ホテルからほとんど人影のない、夕闇の小雨の網走の街中を歩いていく。
網走川の河口左岸にこんもりした森が見える。
なんとなく遺跡のような雰囲気が遠目にも分かる。

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モヨロとはアイヌ語で「入り江の内」という意味である。
これは昭和初期の写真だが、今とほとんど変わらない。
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遺跡のそばに、真新しいモヨロ貝塚館がある。
閉館まで30分ほどしかなかったので急いで館内を見て歩く。
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オホーツク海沿岸にはAD0~8Cにかけて独自のオホーツク文化圏があった。
その遺跡の1つがモヨロ貝塚というわけである。

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出土する土器の形式から、本土とはまた違った
続縄文文化、擦文文化と呼ばれる土器による時代区分があるのが興味深い。
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わずかに水鳥のような装飾があるが、あまり面白みはない。
また擦文というのは、こすった模様のことで、
土器の装飾というより製作過程における作業に過ぎない。


ただ、出土物で興味を引いたのは、
熊の頭部を象った石や木像である。

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素朴だが、熊の頭部の特徴をよく表現している。
熊は後のアイヌと同様神格化され、祀られていたようだ。


展示物もさることながら、このモヨロ貝塚を世に知らしめた、米村喜男衛という人物について興味を引かれたので記しておく。
年譜によると、高等小学校中退後、理髪業を生業とし、その傍ら考古学を独学で学び、
アイヌ研究のために訪れた先で、モヨロ貝塚を発見し、その重要性に気づき、網走に居を移し理髪店を営みながら遺跡の調査を続けた。

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この手の在野の研究者の話は、考古学ではよくある話だ。
それは、考古学がフィールドがあっての学問であるからだ。
いわゆる、在野のベレー帽な人々である。
小学生のころ読んだ、岩宿遺跡の相沢忠洋の物語を思い出させた。




博物館も閉館のアナウンスが聞こえたので、館を出て、遺跡を見る。

これは、墓群であり、土饅頭から覗いているのは、死人の頭にかぶせた甕である。
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よく観察すると、頭は一定方向にそろっており、北西を向いている。
思うに、顔を南東すなわち日の出の方向に向けたのではないかと。
しばらくは、甕を取り外し、亡き人を偲んだのではないか。
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墓域のすぐそばには住居群がある。
現代人は、死から遠ざかった生活をしているが、
モヨロ人は、死をすぐそばに感じて生活していたことがわかる。
我々はその感覚が鈍っているが、日々、自然と対峙して生活する人々には、ごく自然のような気がする。
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住居跡。熊の頭蓋骨が集積しているのが印象的である。
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文献などでは、忽然と消えたモヨロ人などと書いてあったりするが、
おそらく、徐々にアイヌに取り込まれてしまったのではないか。



遺跡から去る道脇に、昭和22年に東大の遺跡調査に同行した、金田一京助の歌碑がひっそり立っている。
「おほつくの もよろのうらの夕凪に いにしえしのび 君とたつかな」
君は遺跡の発見者、米村でなかろうかと思った。

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米村 衛

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