南北朝動乱(水野大樹)

南北朝時代というのは、日本史の教科書でもせいぜい数ページで、鎌倉から室町への移行期のようなあつかいだが、日本史の中ではとても重要な時代でないかと思う。整理したくて、いろいろ本を読んでみるが、なかなかややこしく、いつも頓挫していた。たまたま手に取ったこの本は、手身近に整理されていてよくわかった。


南朝 大覚寺統(後醍醐天皇)と 北朝 持明院統(足利尊氏)の戦いと単純に考えていたが、天皇家の跡継ぎ争いに、後醍醐天皇の理想(天皇親政)と武士の実利的な思惑の対立が入り乱れ、また、実利(領土拡張)を狙う全国の武士たちが参戦し、この時代を複雑にしている。

この時代の前章として、鎌倉幕府北条家の衰退と元寇に参戦した御家人の不満があったことも忘れてはならない。
当初は、鎌倉幕府を打つために、御家人は後醍醐天皇に応じたものの、実利が見えないために離反し、北朝と結びついた尊氏の勝利となる。鎌倉幕府を滅ぼしたのは、後醍醐側の新田義貞でありながら、結果を伴わなかったことが、複雑にしている。


この争乱でまだ、通信、交通インフラの貧弱な時代にあって、情報入手や移動距離に対する、時間の短さには驚くべきものがある。



登場人物を整理すると

後醍醐天皇 1288~1339 と足利尊氏 1305~1358
理想に走りすぎた後醍醐に対し、現実処理に長けた尊氏が最終的に勝利したと言える。

楠木正成  ~1336
後醍醐天皇に一貫して忠誠をつくし、実戦にも抜群の能力があり、情勢を見る目もあったが、残念ながら敗北を悟りながら湊川の戦いで自害したのは残念なものがある。

新田義貞 1288~1339
南朝方で、鎌倉幕府を陥落させた功績は大きいが、楠木正成にして「尊氏と違い人望、徳がない」と言わしめたのはそれなりのものなのだろう。

足利直義
尊氏の弟 建武式目にあるような、鎌倉執権政治を目指したが、新興勢力武士の反目に合い、観応の擾乱により、兄尊氏に毒殺された。

名和長年  ~1336
楠木正成討伐に軍を派遣し様子見。伯耆の海運土豪。後醍醐の隠岐脱出を助ける。

護良親王 1308~1335
後醍醐の皇子。皇族武将。尊氏に対抗する実力。後醍醐に裏切られ尊氏に引き渡される。「武家より君のうらめしくわたらせ給う」

懐良親王 1329~1383
後醍醐の皇子。九州で勢力拡張。室町に入っても明は日本国王は懐良親王と思っていた。懐良親王の死後、急激に南朝軍は衰退。

北畠顕家 1318~1338
公卿。奥州から尊氏を追って出陣し上京。17歳 半年で敵に勝利しながら600kmを行軍。建武の新政には批判的。石津の戦いで戦死。

高師直(こうのものなお)
ばさら大名。亡若無人。軍事面で尊氏をささえるが、最終的に見放され、直義党に殺害。

佐々木道誉(ささきどうよ)
ばさら大名。鎌倉御家人であったが、幕府を見限った。尊氏に従い幕府で実権を握る。文化面に造形深く、歌、連歌を良くする。

赤松則村
播磨の田舎侍であったが、武術に優れ、6万の新田軍を800でくいとめたりした。建武の新政に見切りをつけ、その後一貫として尊氏に従い、赤松家を四職家まで押し上げた。

脇屋義助
新田義貞の弟。「弓矢の道、死を軽んじて名を重んずるを以て義とせり」 義貞の死後、室町幕府との戦いを続行するが、伊予で没。












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