影の日本史にせまる(嵐山光三郎・磯田通史)

和歌~連歌~俳諧という歴史の中で、その時々に活躍した西行~宗祇~芭蕉は何者であったか。
彼らは、全国を遊行し、各地で歌の会を開きながら実は各地の情報を時の権力者に伝えるという役目をしていたという。
歌の会には、地方の権力者、財界人が当然集まるし、その席では雑談の中でいろいろな情報が得られたのだろう。
今でいう、接待ゴルフで情報を得るようなものだったのかもしれない。


西行(佐藤義清)は、北面の武士のエリートであったが、出家してしまう。
おそらく、そのまま武士にとどまってもいいことはなく
「惜しむと手惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身も助けぬ」と詠んで鳥羽上皇の止めるのも振り切り出家する。
やがて、起こる「保元の乱」では、鳥羽院と崇徳天皇のどちらへ付くのかという渦中に身を投じることになる。
このまま宮中に使えるより、出家するほうが安楽を得られると思った。
「空になる心は春の霞にて 世にあらじとも思い立つかな」
時代が暴力の日常化に向かっていく中で、人に奉仕する、神仏に奉仕するほうに魅力を感じた。

これは一遍の出家にも似たようなところを感じる。

出家とはその家の財産を捨てることになる。百人一首の坊主めくりで手札をすべてとられるのはこれによっている。

西行は奥州に二度行っているが、単に歌枕を訪ねる旅ではなく、奥州藤原氏の情勢をさぐる朝廷のスパイでもあった。

清盛は宗教にとらわれない合理性をもっている。
平氏は人が良かったから義経や頼朝を生かしてしまったため油断があった。
清盛の輸入した宋銭は江戸時代50年ほどまで使われていた。
敦賀から長浜まで運河を掘ろうとして、実際に堀留地蔵が残っている。

「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」
西行は歌のとおり釈迦入定の日に亡くなる。
毒薬か何かを少しづつ飲んで、調整していたのではないか。

「もののあわれ」
美と汚い軍事的な死が同居しているのは源平合戦のころまでではないか。
その後の死は、銃が登場してからは戦いにポエムがなくなる。

「○○だと思うが、どうか?」という話法
事を荒立てない気配り
日本の権力体制にはこの話法があり、世襲権力は生き残り方を心得てきた。
相手を傷つけないし、実は自分も責任をとらない。
和歌にもひとつの言葉を行くとおりにも取れる暗示がある。

徳川家の祖
「徳阿弥」という人が三河の豪族松平と酒井のところにやってきて連歌の会の執筆を行った。
気に入られ、松平の婿になり、松平と酒井に子を作ってしまった。
徳川はこのような時宗の連歌の僧から始まった。


芭蕉が江戸に出たわけ
大坂には西鶴や近松がいる。
京都には西山宗因や北村季吟がいる。
入り込むすきがないので諸国の掃き溜めと言われている江戸に出た。


パトロン杉山杉風は魚屋で、魚屋は武士の勝手口から出入り自由で内情にアクセスしやすい。
「行く春や鳥鳴き魚の目には泪」
この魚は杉山のこと。

「猿引き」は忍者の忍ばせ方の手法
昼間に「猿引き」として武家屋敷に入り、夜に猿の着ぐるみを着た忍びが忍び込む。

俳諧自体が組織化され、多くの情報が自然に入ってくる。
荻生曾良は実際に幕府の諜報部員だった。

俳句はみんなフィクション。
「~であることにする」は日本の文化そのもの。
着ぐるみにしても、中には人間がいないことにするというもの。
俳諧もお互いの中で虚構が共有できる文学。
「蓑虫の音を聞きにこよ草の庵」(蓑虫は鳴かないが枕草子の一節をお互い認知している)


影の日本史にせまる:西行から芭蕉へ
影の日本史にせまる:西行から芭蕉へ






ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント