地質学者ナウマン伝 (矢島道子)

糸魚川のフォッサマグナミユージアムに行ってから、ナウマンに興味があって、惹かれて読み始めた。
ナウマンはお雇い外国人として明治8年から10年間の日本滞在中に、交通の発達していない日本の国土を精力的に移動し、今でも十分通用する「日本全土地質図」を作り、地質調査所を創設した。しかし、このような功績にもかかわらず、日本を去る時のナウマンは不遇であり、その後の日本の学会においてもあまり伝えられず、ドイツに帰ってからも「森鴎外との論争」で悪役として伝えられたりする。しかし、筆者は、いくらかの同情を持って、その事実を明らかにし、事実のナウマン伝を書き記している。

思うに、ナウマンは地質に関して卓越した技量と情熱を持っていたが、世渡りに関してはあまり上手でなかったようだ。西洋に追いつき肩を並べたいという維新日本政府に体よく利用されて、地質調査所や後継の日本人が育ってしまえば、お払い箱にされたような気がする。彼は幸福だったかどうかは彼に聞くしかないが、日本滞在の10年間の精力的な行動を見る限り、日本の地質だけでなく、文化にも熱中した時間を過ごしたことには間違いない。



以下、メモ


野辺山高原での景観からのフォッサマグナの発見は、糸魚川フォッサマグナミュージアムでよく解説してあったが、その後、明治11年の論文「日本における地震と火山噴火について」で日本列島の構造について5つの視点でまとめているが、よく日本列島の構造を端的に表現したものだと思う。東北日本と西日本ではその構造について違いを述べているし、天草から讃岐、淡路島南部、加太岬、渥美半島に抜ける線状についてすでに気がついている。

私生活では、最初の妻ゾフィーとの幸福な生活もつかの間、ナウマンの部下であるシュットと妻の不倫が原因となり、傷害事件、裁判、決闘などと不幸な結果となった事件がある。結局は離婚となり、シュットは日本を去り、ゾフィーもアメリカへ渡りピアニストとして生涯を終える。プライベートなことなので真相は明らかでないが、ゾフィーの性格が奔放だったらしい。そのころ、ナウマンをその後の日本で有名にする「ナウマン象」の研究が発表されているのも興味深い。

大森貝塚は、モースによって発見されたといわれているが、フランツ・フォン・シーボルトの次男であるハインリッヒ・フォン・シーボルトがモースより早く発見している。また、ナウマンもその頃、古代東京湾の海岸線が内陸にあったこと貝塚で明らかにしようとして、それより早く知っていたかもしれない。
モースが第一発見者のようになっているのは、モースの有名になるための画策によるところが大きい。「発見者としての称号は、世間に認知されたがどうかで決まる。」という、いつの時代にもよくある話である。

ナウマンが貝塚を調べたのは、江戸湾は隆起しているのではないかと考えたからである。浅草が内陸にあるにかかわらず海棲の「浅草のり」があるのは不思議であると論文の冒頭で述べているのも面白い。しかし、東京の貝塚が内陸にあるのは、いわゆる「縄文海進」によるところが大きいとおもわれるし、「浅草のり」は江戸前の海苔を浅草寺門前で加工販売したことが名前の由来であろうが、来日間もないナウマンは、自身の地質学的興味から江戸湾の隆起と結びつけたのであろう。彼の好奇心がうかがえる話だ。

ナウマンは、日本近代化に欠かせない、石炭と鉄について調査したが、その中で、たたら製鉄のかんな流しについて「水力法(ハイドロリックメソッド)は近傍の豊穣な田土に損害をもたらす恐れがある」と環境悪化を警告している。



重学→物理学、星学→天文学、金石学→鉱物学




地質学者ナウマン伝 フォッサマグナに挑んだお雇い外国人 (朝日選書) - 矢島 道子
地質学者ナウマン伝 フォッサマグナに挑んだお雇い外国人 (朝日選書) - 矢島 道子

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