黒鍬さんがいく (広瀬伸) 風媒社

「黒鍬」とは日本史においての土木集団の呼び名であるが、その実態はつかみ所のないものである。
本書は黒鍬を4つの系譜にして、多くの過去の文献から説明してあり、読み物として面白かった。

「黒鍬の4つの系譜」
1 戦国期に築城や鉱山技術をもって領主に使えたもの
2 石工 穴太衆
3 農閑期作業として 旅としての土木集団
4 農具としての鍬 鍛冶


「民俗学」における黒鍬

南北朝以後、古代に聖だった朝廷や寺社などの権威が落ち、聖なる存在に属していた職能民が平民から差別されるようになった。(網野善彦)

柳田国男の著作における黒鍬
「毛坊主考」
土工の技術者 池づくり、井戸掘り 黒鍬と呼ばれる職業
宿、鉢屋、聖、鉢たたき、博士、声聞師(しょうもんし)、陰陽師、院内、散所、万歳、寺中
彼らは塚、墳墓に住むことに着目した。

「武蔵野の昔」
井戸を掘る技術 下財とか黒鍬という集団 鉱山との関係
近年の武蔵野趣味は、国木田独歩をもって祖となす
武蔵野の水の確保と黒鍬集団
井はゐであり、井堰と同じく、水を何らかの形で留め置くこと。

柳田の民俗学のスタートも賤なる民がいたが、彼の関心は常民に移り、被差別民や漂泊民からは離れていった。

堀兼の井(埼玉県狭山市)
枕草子、千載和歌集に記載
地面をらせん状に掘り、すり鉢の底に井戸を掘る
降り井、下り井、七曲井、
まいまいず井(東京都羽村市五ノ神神社)




戦場の非戦闘員としての黒鍬
戦国時代の非戦闘員(職人)の中には黒鍬と呼ばれるものは兵法書には見当たらない。
「下財」 精錬を含めた鉱山者全般、鉱夫
備中高松城の水攻め工事は、12日の普請
秀吉の普請道楽 御土居、伏見港
「金堀」 戦国の攻撃 地下から城に忍び寄る




江戸幕藩体制の黒鍬
将軍-若年寄-目付-黒鍬頭-黒鍬之者 という職階になっていた。
下級の雑事をこなす職で10俵1人持ち程度であった。総勢1800人ほど。世襲制であった。
鑑札を持って江戸城の門番などもしていた。雑事、小間使いのようなもの。


黒鍬組屋敷は、江戸の開発フロンティア、街と田圃の境界にあった。
浅草曹源寺のかっぱは、土木衆だった。排水に苦しんでいたのを見かねた合羽商の喜八(合羽屋川太郎)は排水工事をする。
地名に残る黒鍬。熊本市黒鍬町(現水道町)、三重県鈴鹿市黒鍬公園(現南玉垣町)
近世はさまざまな技能を持った居場所も定まらないものが町方に居住し、総括的な能力を持ったものが案内者となる、大工や金堀もそのようなもの。




石工の系譜
古墳期 阿蘇石、二上山石、竜山石、九州北部の「神籠石」
石採り、石彫り、石積みの3種
河原者、山水河原者
穴太衆 近江国穴太村(滋賀県大津市)
穴太積み 自然石を加工せず布積みにして、目地は崩し、品の字のように積む。石の奥行き1/3程手前で下の石に接するように積む。下の石より上の石を少し前に出す。こうすることで排水もよく、忍者の足がかりもなくなる。奥には大量に栗石を入れ排水をよくする。
肥後の石工の技術が広まったのは、干拓事業の樋門の築造によるところが大きい。

鉱山技術と新田開発
「金堀」によるトンネル用水
「マンボ」と言われる横井戸。坑道を言う「間歩」との関係。三重県いなべ市の六反マンボ、山古志村の横井戸。




旅をする黒鍬
「おわり(尾張)」と呼ばれる集団。
知多郡柿並村(現美浜町)に在住し、旦那場、得意場というところへ出稼ぎに行く。
ため池の補修(久米田池の記録に残る)
「堀埋」「樋伏せ替」
「穴明」漏水箇所を掘り進み埋め戻す
「嵩置・笠置・上置」 堤の高さを上げる
「腹付」
「池浚」
「はかね入れ」


「タビ」(旅)という生業は、農業に限界のある地域に作り上げられた土地を必要としない生産の形

「はばた」という集団 土石の運搬人夫のこと。農地を捨てた「破畑」が語源か


道具としての黒鍬
開墾、土工用としての大きな重い鍬 黒鍬 鍛冶


黒鍬さんがゆく: 生成の技術論 - 伸, 広瀬
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