旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三 (佐野眞一)

書題の「旅する巨人」とは宮本常一のことであるが、同時にそのパトロンでもあった渋沢敬三のことを言っているのではないかと思う。渋沢なくしては宮本はいなかったであろうし、また、立場上、旅にその人生を見出すことがままならなった渋沢にとって、自らの旅の足と目となる宮本はなくてはならない存在であった。

本書は、宮本と渋沢の一生を軸にしながら、日本の民俗学、民族学の系譜を余すことなく読ませてくれる。また、渋沢の年譜を通じて、日本経済界や、不幸な戦争と日本経済のかかわりについても読ませてくれた。

作者のあとがきにあるように、「正しい歴史を後世に残すためには包み隠すことはしない。」と言った宮本と渋沢の言葉が伝わる1冊である。

宮本常一と渋沢敬三 旅する巨人 (文春文庫) - 佐野 眞一
宮本常一と渋沢敬三 旅する巨人 (文春文庫) - 佐野 眞一


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宮本の泉南町田尻尋常小学校勤務時代に ため池について
「池は寺や神社が権利を持っているものがある。そういう水は渇水期に寺社から買って水を引くことが出来る。池には池床というものがある。それは池で魚を飼う権利である。池の水がなくなってしまうとかいぼりといって池の中の魚をつかみ取りするのは用水区域の人々である。
池一つにもそうした権利が絡み合っている。そのからみ方を見ることによって池の築造された年代がほぼわかってくるようである。」と言っている。

口承文学後記より
多くの博識家、好事家はいる。これらの人々はその対象に真なる自己を見いだそうとしない。言わば一種の道楽である。


渋沢敬三と宮本常一
敬三は宮本のことを「我が食客は日本一」と語り、宮本は「渋沢先生は私の中に古い農民の姿を見たに違いない」と語っている。

父・渋沢敬三 (1966年) - 渋沢 雅英
父・渋沢敬三 (1966年) - 渋沢 雅英


敬三の人間観察眼
その土地の上流に属するものなら、大抵宴会場に案内してくれる。そのとき芸者が出る。その芸者がそれとなく近寄って心置きなく話していればその人はいい人だ。女が寄りつかなかったり、女にふざけたりしている人は警戒すべきだ。


柳田国男と渋沢敬三
「治者」として人の上に君臨する立場に修正固執した男と、近代的バンカーとして人を育て上げようとした男との根本的違いであった。

『柳田国男作品集・26作品⇒1冊』【画像101枚】 - 柳田 国男
『柳田国男作品集・26作品⇒1冊』【画像101枚】 - 柳田 国男


折口の「とこよ」と「まれびと」の柳田の「民族」掲載拒否を巡って
民間伝承のデーターを帰納的にたどって結論を導く科学的論法を取ってきた柳田からすれば、折口の直感的なひらめきと演繹的な手法で結論を導くやり方は、邪道でしかなかった。

『折口信夫全集・158作品⇒1冊』 【さし絵つき】 - 折口 信夫
『折口信夫全集・158作品⇒1冊』 【さし絵つき】 - 折口 信夫


柳田国男と宮本常一
柳田は生涯、天皇制権力に直結するコメの問題に関心を持ったが、宮本はむしろ庶民になじみの深いイモの問題に関心を注いだ。宮本が多く歩いたのは焼き畑と段々畑の西日本であり、離島であった。宮本は稲穂が風そよぐに東日本の水田風景にはほとんど目もくれなかった。



第二次大戦中の民族学と軍部の接近
岡正雄の国策としての「民族研究所」の設立
現実民族の心理的動向、性格、構造を把握。「民族台帳」の作成
内蒙古の張家口に「西北研究所」大東亜共栄圏の外郭地帯の民族調査。今西錦司所長、梅棹忠夫が嘱託
「昭和通商」という軍事国策会社には川喜田次郎がいた。これらは今西が自分の学徒を兵役から逃れさせる方法でもあった。




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本書では多くの民俗学、民族学の先人名や地名が出てくるが、何かしらそれに縁があるように思えるのは、それだけ宮本や渋沢の人脈や行動範囲が大きかったことによるのだろう。
民族博物館、天王寺師範、北海道幌延、山古志村、離島振興法、網野善彦、中沢新一、中根千枝、川喜田次郎、姫田忠義、アチック・ミューゼアム









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