海賊がつくった日本史 (山田順子)

著者は時代考証家だけあって、いろいろな文献から調べているので、大学の歴史学者よりも広範囲で見ている。海賊から見た年表も巻頭にあって、なかなか面白い。あとがきにもあるように、筆者の祖先は呉の海賊でもあった。

日本の海賊は海の武士であって、すべて悪行を働く輩ではないと思う。確かに沖を行く船を襲って物品を略奪したかもしれないが、通行税を払えばその海域の安全を確保して通過させていたわけで、また時の権力の傭兵として行動していたとなれば、陸上の武士と同じである。
宮本常一の「瀬戸内文化史」にもあるが、海賊こそ瀬戸内の歴史を担った集団である。


「海賊」が歴史に頻繁に現れるのは、平安時代以降で、海難事故のリスクをさけて陸上輸送していたが、安全性が確保され海上輸送が増え、その租庸調を狙った海賊行為が行われるようになった。

南北朝動乱において、瀬戸内各地の海賊の動きは興味深いのでメモしておく。
当時の権力者は海賊の力添えなしには、動きようがなかったことがわかる。
いっぽう海賊も、どちらにつくかでその運命が大きく左右されるので、情勢を見て寝返ったりしている。

懐良(かねよし)親王 肥後国宇土津の隈部城に入り、征西府を開き北九州を攻略した。
懐良(かねよし)親王は倭寇も掌握していたため、明の洪武帝は懐良親王を「日本国王」に冊封した。
しかし、懐良親王はまだ幼く、またその死後も明朝貿易において日本「国王懐良」の名が用いられることを見ると、日明貿易での名義にしか過ぎない。

義満の日明貿易のねらいは幕府の明銭の独占輸入にあった。
同時に倭寇の鎮圧も明と約束している。

明との貿易は「明銭」の確保が目的であった。
幕府、南朝ともに財政力と国内経済を掌握するために「明銭」という貨幣が重要であったことがわかる。
今でいえば、各国政府が実現に向けて動き出している電子マネーに相当するものになろうか。


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939 藤原純友の乱
純友は名門藤原北家の家柄であったが、伊予に赴任して「追補使」として海賊の鎮圧にあたっていたが、任期を終えても伊予に留まり、次第に海賊のリーダー的存在に祭り上げられてしまった。瀬戸内各地で海賊行為をしたものだから、結局は伊予で斬首された。純友の襲撃対象は国府であり、その目的は伊予から都に荷を運ぶ際の通行料をせしめる国府を懲らしめるものであった。当初、朝廷が静観していたのも、地方権力どうしの争いとみていたからである。

1185 壇ノ浦の戦い
平氏 筑前国山鹿秀遠 松浦党(元は渡辺綱の曾孫久が祖) 
源氏 熊野海賊(田辺闘鶏神社の占いにより源氏につく)

1221 承久の乱
朝廷側についた熊野海賊と伊予河野海賊は没落  一遍の出家とも関連?

1336-1392 南北朝動乱
朝廷側 【伊予水軍】得能氏、土居氏、大三島 祝(ほうり)氏、忽那氏、河野氏
     得能道綱、土居満増は木ノ芽峠で戦死 恒良親王、尊良親王の死
1339 後醍醐天皇崩御

1338 懐良親王 吉野を脱出し讃岐へ 塩飽諸島を経由 阿蘇神宮のネットワークを利用 忽那諸島の忽那義範(よしのり)に身を寄せる。
   豊後~日向~薩摩坊津谷山城に到着

1340 脇屋義助(よしすけ 新田義貞の弟)後村上天皇の命で海賊を統括するため伊予に下るが、発熱して没
   田辺(熊野海賊)~沼島(阿万・志知・小笠原海賊)~備前児島(佐々木信 、梶原景久) 
 
1348 懐良(かねよし)親王 肥後国宇土津の隈部城に入り征西府を開き九州攻略を開始

1350 足利尊氏と弟・直義の対立 
   直義の養子で尊氏の庶子である 直冬(ただふゆ)が九州入り
   九州は幕府・直冬・南朝が三つ巴状態

   直義 摂津打ち出の浜で尊氏を破る

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海賊がつくった日本史 - 山田 順子
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