「宮本鍛冶山内遺跡」を訪ねる

今回の目的地の1つ、「宮本鍛冶山内」を訪ねる。
アクセスは国道9号線から県道286号に入り「智呑」という集落からさらに枝谷に入る。
地図にも印がなく、はじめて行くものにとってはたいそうわかり難い。


県道から山道を15分ほど入ると谷の広がった場所に出る。
ここが宮本山内だ。


田儀櫻井家のたたら製鉄の中心地である。
しかし、ここには「たたら」はなく、
たたらで生産した鉄から割鉄を生産する大鍛冶場と
製品を生産した小鍛冶場があったのみである。
よって、「鍛冶山内」というのが正しい呼び方である。

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付近は手入れされていない杉林が広がり
荒廃した感じが漂っている。
案内板がなければ、ここが山内遺跡とはほとんどわからない。
案内板や事前に入手したガイドブックをたよりに付近を散策する。


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田儀櫻井家本宅跡。山の斜面を切った後の五段の石垣が痕跡をとどめるのみ。
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1つだけ石造物が転がっていた。灯篭か手水鉢の残骸だろう。
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割り鉄を生産した大鍛冶場と鉄製品を加工した小鍛冶場跡
山と川に挟まれた平地だが、あまり広い感じはしない。
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「たたら」につきものの「金屋子神社」
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谷の奥には、雛段状にたたらに従事した人々の住居跡が広がる。
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最盛期には170軒700人が住んでいたという。
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住居跡の中心部に残る小池。生活用水を貯めていたのか?
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田儀櫻井家墓所
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1852(嘉永5)~1893(明治26)の墓碑




<宮本山内盛衰史>をまとめてみた

1667~75(寛文~延宝) 初代直重 宮本に進出
              3代~6代目  経営拡大 宮本山内 60軒200人

1780(安永9)田沼意次 鉄座の設置による鉄価格の急落 経営困難
1803(享和3)経営が藩の管理下におかれる。(会社更生のようなものか)

1809(文化6)~ 10代目、11代目による再興 最盛期
           12代目 長州戦争

明治以降 鉄価格の下落、生糸、銀行業に乗り出すが失敗
1882(明治15)宮本山内が大火
1890(明治23)製鉄業を断念




1997(平成9)宮本集落 無人となる




田儀櫻井家のたたら経営は、宮本に「たたら」を置くのでなく、
周辺の山間部のたたらで生産した鉄を宮本で加工して
田儀の港から消費地に搬送した。
たたらは原材料の砂鉄と木炭を求めて山中の移転を繰り返している。




廃屋とともに残された芭蕉が昔を物語る
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シソ科の類だと思うが、名前はわからない。
秋の山中で見かける花だ。
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黄色は珍しい。
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