やきもの文化史 (三杉 隆敏)

陶芸をやり始めてもう足かけ7年はたつ。やきものはいくらやっても奥が深い。それだけの歴史があるからだ。
やきものが世界に伝播する過程を著者は現地に足を運び解き明かしている。この本は多くのことを教えてくれた。

轆轤
蹴轆轤 右足で蹴るので轆轤は左回り、中国・朝鮮系、九州、丹波にあるが大陸系の証し
手轆轤 手で手前に引っ張るので轆轤は右回り、座敷に座る日本系

メキシコ、アンデスは轆轤の使用がなかったので鐙型の壺ができた。
魯山人は轆轤が引けなかった。お抱えの轆轤師がいた。

陶器は 土器、炻器(せっき)、陶器、磁器 に分類される。
炻器(せっき) 土師器、須恵器、備前、丹波、常滑、越前、信楽、瀬戸 いわゆる焼しめ1100度~1200度の高温で焼く。

釉薬
灰釉→ 焼成中の自然釉から
ガラス釉→ 粉末状のガラス粉を振りかけたもの

ペルシャ陶器技法の欧州への伝搬 イスラム文化の伝搬 

磁器 カオリン(チャイナクレイ)と1300度の高温。
焼成中に灰が被らないように耐熱容器の中に入れて焼く。

磁器は「海のシルクロード」で西洋に運ばれた。
交易船は、イスラム商人、中国ジャンク、欧州船団と変遷する。
バラストの代わりに中国陶器を積み込んだ。

ベルルーニやテチアーノの絵画(1520ごろ)の中に中国明朝の大皿が見受けられる。
1602年 東インド会社がポルトガル船を拿捕した中の積み荷の中国染付陶器がオークションでフランスアンリー4世などが買ったことでブームになる。
1709年 マイセンで陶器の制作に成功 技術者はウィーン、ヴェネツィア、フィレンツェ、コペンハーゲン、ペテルブルグなどに流れていく。

日本の伝統的な焼き物の好み(茶碗の景色)と西洋の均整の取れた焼き物の好みの違い

景徳鎮の磁土の採取地である「高梁山」の発音がカオリンナイトの由来である。

中国の焼き物は徹底した分業システムで行われ、明朝景徳鎮の官窯では、389人で23の分業が行われている。

筆者は景徳鎮にあこがれて訪れたものの、質の高い文化的な焼き物を製造する歴史的な街のイメージと違い、巨大なあらゆる種類の焼き物を作る大都市出ることにがっかりしている。

中国陶器貿易の初期は、国内需要の仕様のものであったが、イスラム商人の手によって、相手国の好みの仕様のものを生産販売するようになる。現代残された名品は、中国宮廷用や副葬品のほかに、海外からの特注品があることを忘れてはならない。各地に残る中国陶器は、その国の生活様式にあったものが多い。

青磁
宋代13世紀のものが最良 完成まで1000年かかっている。
玉(翡翠)を人工に焼こうとした。
玉も青磁の釉薬も小さな泡が層となっている。その泡が光を乱反射し1mmほどの釉薬であるのにしっとりとした感じになる。
松薪を使い浙江省の龍泉窯で焼いたものが有名。
草戸千軒でも14世紀の龍泉青磁が出土している。
毒が入ると色が変わるというのは、中国以外でのアラビヤ人のセールスポイントに過ぎない。
インドでは「ゴリ」といい、砂で洗うので傷つきそれが長年大切にした証となる。
カースト制度のため、使用した陶器は一度限りで割ってしまう。

白磁
純白なものを祭事に使用するように白に対するあこがれは中国、朝鮮、日本で強い。白磁がなかった日本では白木にそれを求めた。
白い粘土(カオリン)を釉薬としてかける技法を「白化粧」「エンゴベイ」という。
「刷毛目」という技法は白粘土を刷毛で模様をつけた焼き物
河北省の定窯の白磁が代表的 形は「梅瓶」
景徳鎮の白磁はわずかな鉄分のため青みを帯び「影青(インチン)」と呼ぶ

染付
白磁に酸化コバルトの藍色で絵付けしたもの
元時代にイスラム商人の発注により西方から技術が伝わった。
酸化コバルトを「回青(ホイチン)」というのは回教徒の青の意味がある。
コバルトの産地はコンゴ50%、モロッコ12%、ザンビア10%
コバルトは高温でもよい発色を保つ。
9世紀中期にメソポタミアでコバルトで絵付けした陶器がある。


呉須焼
福建省石碼窯の貿易品で日本に入ったもの
景徳鎮に比べ少し悪い。均質でないところが日本人が気に入ったところ。
染め付けのコバルトのことを「唐呉須」というのもこの焼き物から来ている。
欧州では積み出し港の汕頭から「スワトウウエア」と呼ばれる。


伊万里の台頭
秀吉の朝鮮出兵に破れ、日本を支援していた陶工李三平が集団で移住する。
明が清に滅ぼされ、景徳鎮の陶器貿易はストップし、そのあおりを受けた東インド会社は有田焼を買い付ける。
日本的デザインに変わり柿右衛門の色絵のものも欧州で好まれるようになる。


唐三彩
実用品でなく副葬品
色調は緑、褐色、藍
西方(イラン)の影響
日本でも模したものが作られ「正倉院三彩」とか言う。


天目
鎌倉時代、浙江省の天目山寺に修行に行った僧侶が持ち帰った供え物の什器茶碗が元祖。
釉薬の名でもあり、鼈口、高台の浅い形を天目茶碗とも言う。
福建省建窯が産地。
日用雑器のうち、寺の什器であったものが、寸法、気品に優れていることから台子手前、貴人手前に用いられるようになる。
天目?は、蕨藍草(けつらんそう)の灰に赤土(鉄、マンガン、礬土(水酸化アルミナ))を混ぜる。


曜変天目
日本に4点あるが中国にはない。建窯の作。
偶然焼けたものであるが、美しいと思ったら量産体制にはいったであろうがそうはならなかった。
旧稲葉家、京都龍光院、藤田家、安宅コレクション(油滴 東洋陶器美術館)
油滴 マンガンを主とし鉄、コバルトの結晶が散らばる窯変

マルバタンの壺
天目?の4つ耳付きの大壺
ビルマの地名に由来
水瓶、種壺、交易用の容器として使用 ルソンの壺もこの類
海沿いに広く分布


秀吉や利休は人間的に大物である。そのような人たちが対峙したとき、自己表現の接点として茶碗を間に置いた。また他の客を交え、お互いの感性をちらちらとテストし合う。でも、時が経ち心が和み、それらの相乗効果をもたらす中心となり、はてしなく精神の遊びをむさぼった。茶道はそのようなものではなかったか。

作家が3分の1、窯の中の炎が3分の1、窯から出てきた姿を判断し美を見つけ出すのが3分の1、それではじめて良い茶碗が選び出される。

権力と財力があってはじめて良い美術品が生まれ収集される。博物館、美術館のコレクションの中心となったのも個人コレクションである。美術の鑑識眼も2代、3代にわたる試練がないと鍛えられない。お金と鑑識眼両方が必要というのが難しい。


やきもの文化史―景徳鎮から海のシルクロードへ (岩波新書) - 三杉 隆敏
やきもの文化史―景徳鎮から海のシルクロードへ (岩波新書) - 三杉 隆敏



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