瀬戸内文化史 (宮本常一)

このたび神戸から下関まで、在来線を普通列車で旅行した折に、長い車中で読んでいた本である。瀬戸内の文化はまさしく海の文化である。
それは漁業、製塩、海賊、海運などに従事した人々の文化である。

本書は雑誌、新聞に掲載されたものの収録になっており、体系だっていなくて重複するような内容もあるが、瀬戸内海の文化の成り立ちを、考えさせてくれた。本書に出てくる浦々の地名は、車窓を駆け抜ける風景と重なるところがあり、旅の友として最適だった。

そにそも海の民は漂泊の民であり、船をすみかとして思い思いの生活をしていた。3世紀末頃に、大和朝廷が力をつけ始めると、大浜宿禰(おおはまのすくね 安曇連の祖先)が海人を統一する。このころはまだ吉備より東方の海に限られている。



舸子(かこ)
船の漕ぎ手、戦争時や遣唐使船などの船員。加子、水主、水手、水夫とも

海賊
舸子としての仕事が少なくなると、海賊行為を働く者もでる。(藤原純友の乱)もともと漂泊の民なので、討伐が難しい。15世紀はじめから16世紀末は海賊が多かった。
淡路島、小豆島、直島諸島、塩飽諸島、因島、越智大島、蒲刈島、江田島、忽那島、周防大島、姫島、国東半島などが海賊の根城であった。
豊臣秀吉は朝鮮出兵に際して、舸子を動員した。そののちも、舸子浦という漁業権を与えた浦を定め、彼らを定住させた。
海賊行為が少なくなると、平和な航行が可能となり、海運が盛んになり、多くの港が反映した。
明治になるまで海賊行為は、困窮した島を根城として、瀬戸内海各地にあった。海賊除けのために船内で粥を炊き、海賊が攻めてくると熱い粥をかけるということまであった。



南北朝騒乱と海賊
南北朝時代は、西国は南朝と北朝にわかれ、南朝側は忽那氏、村上氏でその他は北朝側であった。南北朝騒乱は海賊の組織化を進めた。


製塩
塩田で働くものを「浜子」という。入浜式の塩田は4000haにおよび、労働者は4万人を数えた。浜子だけでなく、大工、石工など派生労働者も増え、経済行為が盛んになり、海賊の海も平和になった。


船運
船は高速大量輸送手段であり、風任せのところもあるが、オランダ医師ケンペルの日記では、2月19日に下関を発ち、2月24日には大阪に着いている。船旅の日記では、寄港地で酒や料理を食べある意味おもしろい旅だったのではないか。



瀬戸内文化誌 - 宮本常一, 田村善次郎
瀬戸内文化誌 - 宮本常一, 田村善次郎



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