「承久の乱」について

「承久の乱」について、興味あったのでまとめ考察しておく。

承久の乱のまえぶれはすでに、伊豆の流人であった源頼朝が北条政子と結ばれたところから始まっている。



1199(正治元年)
御家人の裁断は、頼家の親裁を廃し、13人の有力御家人の合議制となる。
このころから御家人の結束にひびが入り始め、頼家の懐刀であった、梶原景時が鎌倉から追放され、反鎌倉勢力を結集するため京都へ行く道中で殺されてしまう。

1202(建仁2)
頼家は征夷大将軍となるも、北条打倒がばれ、出家し伊豆へ流され結局暗殺される。
実朝を3代将軍にすえた北条時政は大江広元と政所別当となり、御家人第一人者となる。

実朝(25歳)は、名門貴族坊門信清の娘(13歳)を正室に迎える。これは政子と鳥羽院の乳母であった藤原兼子(卿の局)の提案であった。

1205(元久2)
畠山重忠・重保親子が時政の後妻牧の方の讒言により無実の罪で惨殺され、時政と義時の対立が起こる。
さらに牧の方と時政が実朝殺害を謀るという陰謀が暴露する。実朝は義時の館へ移り、御家人の多くは政子側について、時政は出家して伊豆へ下向する。これにより義時・政子体制が確立する。



後は、政子は傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握る。



1213(建保元)
和田合戦
和田義盛(実朝の計らいで息子が赦免)と北条義時の対立により鎌倉が戦場となり、和田方が全滅。これにより義時は政所別当と侍所別当を兼任し、権力が集中。

1218(建保6)
世継ぎのできなかった実朝は、武家の世界から現実逃避し右大臣となる。一方で後鳥羽院乳母である藤原兼子と政子との会談により、冷泉宮頼仁を4代将軍とすることとなった。

「新古今和歌集」 後鳥羽院の命 選者  源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・(寂蓮)
「金槐和歌集」 源実朝の歌集


1219(建保7)
実朝、右大臣拝賀の帰りに惨殺される。これは源氏が途絶えたことを意味する。これは北条の台頭を意味し、地頭改廃問題を機に京都と幕府の緊迫が深まる。

頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺されたことになる。


1219(承久元)
騎乗道家の子 三寅(2歳 のち頼経)が鎌倉入りし、政子が摂政する。(傀儡将軍)

1221(承久3)
後鳥羽院 諸国の武士を集め、宣旨により義時を朝敵と名指しした。
政子 御家人を集め、泰時(義時の嫡男)を大将として京都を目指す。総勢19万
幕府軍 圧倒的勝利

泰時、時房は京に残り六波羅探題として西国を統括

順徳上皇 佐渡へ流刑
土御門上皇 土佐へ流刑
後鳥羽院 佐渡へ流刑
六条宮 但馬へ流刑
冷泉宮 備前へ流刑

院に加担した武士はほとんどが死刑、その多くは頼朝の縁者であり、将軍勢力が一掃され北条の権力が確固となった。
京方の武士の所領は没収され、東国武士に与えられ、東国武士の西国進出となる。

天皇は廃帝(九条廃帝 のちの仲恭天皇)
後鳥羽院の兄 行助法親王が還俗し院政を行い、その子が後白河天皇となる。(すべて幕府のいいなり)


1232(貞永元)御成敗式目により裁定の明文化


承久の乱を機に、連綿を続いた天皇の権威の絶対性が崩壊した。
日本国の統治という点でみれば、天皇の統治は、古代では神的なもの、その後は仏教を精神基盤とした絶対的なものであったが、鎌倉武士の武力や評議による統治を経て、御成敗式目の制定により、人でないシステムという新たな統治手法が登場したことがわかる。

この変化の立役者において、北条政子の役割(北条家といってもいいが)は非常に大きいものがある。

さらに考えるは、鎌倉と京は縁戚関係を結びながら、時代変化により複雑に入り組み、また北条家内部でも、義時と父時政、政子と父時政の反目があったりする。これらの裏には、政子とか後妻の女性の姿が明らかに見えるのだが、この身分の女性がこの時代を生きるには家族とか縁戚といった生易しいものではない、ところにあるのだろう。












マンガ日本の歴史(16) (石ノ森章太郎デジタル大全) - 石ノ森章太郎
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